こんにちは、感情のあとに意味をつなぐ構造案内人・ナビユキです。
「どうしてこの関係がこんなに心に残るんだろう?」
そんな感情の揺らぎを、“グリュックとマハト”の静かな共犯関係から一緒にたどっていけたらと思います。
この記事では、『葬送のフリーレン』に登場するグリュックとマハトの関係性を軸に、
悪意と罪悪感という感情テーマ、契約と共存の選択、そして終わらなかった問いという観点から読み解いていきます。
読了後には、「なぜこのふたりの関係が、こんなにも余韻を残すのか」──その答えが少し見えてくるかもしれません。
グリュックとマハトの出会い──“悪意”の始まりは静かに
読み返し
葬送のフリーレン
第90話 グリュック#サンデーうぇぶりグリュック初登場回
最後の一服だ
そのくらいいいだろうhttps://t.co/oyP9PUgTVC pic.twitter.com/4mQKmUi55F— おぐら 少年サンデー編集部 (@sundayogura) June 26, 2025
「あれは、ただの敵ではなかった」──
『葬送のフリーレン』の読者の中には、マハトという魔族に対して、そんな印象を抱いた人も少なくないのではないでしょうか。
物語の中盤、黄金郷のマハトと呼ばれる魔族と、人間の領主グリュックとの関係が描かれる場面。
そこには、単なる対立でも、和解でもない、名付け難い関係性が広がっていました。
彼らの出会いは、決して劇的なものではありません。
グリュックの馬車をマハトが襲撃する──ただそれだけの偶発的な接点でした。
しかしその場でマハトは気づきます。
この男には、“悪意”の匂いがある。
それは、自らの内面に人間的な「罪悪感」や「倫理」を持たないマハトが、
どうしても理解したかった感情に近い何か。
一方のグリュックも、ただの強欲な支配者ではありません。
元軍人であり、息子を失った喪失の中で、城塞都市ヴァイゼを“正義で統治”しようとする冷静で強い意志の持ち主。
そして、必要とあらば魔族とも手を組む合理性を併せ持っていました。
「私に“悪意”を教えてくれるなら、力を貸そう」
マハトがそう申し出たとき、グリュックは応じます。
互いの目的は違えど、それぞれの信念のために──。
この時からふたりは、「共犯」とも「契約者」とも、「悪友」とも形容される、曖昧で複雑な関係へと歩み始めるのです。
「悪友」としての30年──共存ではなく、静かな共犯
契約のあと、マハトは城塞都市ヴァイゼにとどまり、人々の生活に干渉することなく過ごしていきます。
“人類に仇なす魔族”が人間の都市に滞在する──その事実だけでも異常でしたが、
都市は穏やかに、静かに日常を続けていました。
けれど、それは共存ではなかったように思えます。
マハトは「罪悪感という感情」を知るために人間を観察し、
グリュックは都市の安定と秩序のために、彼の力を借りていた。
互いに愛情や信頼はありません。
けれど、30年もの歳月を共に過ごし続けたという事実は、
ふたりの間にある種の“共鳴”があったことを否応なく示しているようです。
実際、マハトは都市を黄金化する魔法「ディーアゴルゼ」を用い、
ヴァイゼ全体を金に変えるという強烈な“実験”を行いました。
都市は封印され、住民たちは半世紀の眠りにつくことになります。
それが始まるとき、グリュックは抵抗することなく受け入れます。
「こうなることはわかっていた」──そんな静かな諦念すら滲んでいたように見えます。
もしかすると彼は、自分の命をかけてでも都市を守りたかったのかもしれません。
あるいは、マハトという存在の限界を、どこかで受け入れていたのかもしれません。
ふたりの関係は、目的を共有したわけでもなく、敵味方でもない。
けれどそのあいだに存在したのは、「理解したい」と「利用したい」が交錯する、静かな共犯関係だったのです。
グリュックが“彼は悪友だった”と語るとき、
そこにあるのは情や絆ではなく、互いの利害が重なり合った時間への敬意だったのかもしれません。
“罪悪感を知らぬ魔族”に対して、グリュックが最後に残したもの
都市が黄金化されたあと、マハトは人間の活動をほとんど制限しませんでした。
人々は、まるで日常が続いているかのように暮らし、
マハトはその様子を静かに見つめていたのです。
しかし、それが「罪悪感を知る」ための実験だったとすれば──
その穏やかさは、恐ろしく冷酷な仮面でもありました。
黄金化の解除後、フリーレンの手によりマハトは討たれることになります。
瀕死のマハトを、グリュックは静かに見つめながら、こう語りました。
「楽しかったよ。君はとてもいい悪友だった」
この言葉の温度は、あまりに淡々としていて、かえって胸に刺さります。
「ありがとう」でも「さようなら」でもない。
グリュックがマハトに残したもの──それは、“答え”ではありませんでした。
むしろ、わかり合えなかったという事実そのものを、最後まで差し出し続けたように見えます。
一方、マハトはそのとき何を感じていたのか。
理解できたのか、できなかったのか。
それすらも、読者には明示されません。
ただひとつ確かなのは、マハトは最後まで「罪悪感」がどういうものなのか、答えを得られなかったということ。
それでもなお、グリュックと共に過ごした時間が、
彼にとって何かしら“意味”を持っていたように思えるのは、
彼が「感情を理解したい」と望み続けた存在だったから──
そして、グリュックだけが、最もその探求に寄り添った人間だったからかもしれません。
「静かな共犯」という関係性が読者に残した余韻

『葬送のフリーレン』という作品には、
敵か味方かでは割り切れない“関係のグラデーション”が随所に描かれています。
その中でも、グリュックとマハトの関係は、特にその曖昧さが際立っていました。
友情と呼ぶには冷たく、敵対と呼ぶには近すぎる。
けれどそのあいだに、“悪友”という言葉がぴたりと収まる。
この“悪友”という表現には、互いを完全には理解しないまま、
それでも離れずにいたという、不思議な絆のニュアンスが含まれています。
読者の中には、
「なぜグリュックはマハトを止めなかったのか?」
「マハトは本当に人間を理解しようとしていたのか?」
と、心に引っかかりを残す人も多かったことでしょう。
けれどそれは、“割り切れなさ”そのものが物語の主題だったからではないでしょうか。
この関係が特別だったのは、
互いを許し合ったわけでも、救ったわけでもないのに、
そこに確かに“何かが通い合っていた”という実感があるから。
理解し合えなかったふたりの間に、確かに存在していた時間。
それが「静かな共犯」として、物語の余韻を作っているのかもしれません。
まとめ:理解を超えて、関係は成立しうるのか?
グリュックとマハト──このふたりの関係を、私たちは何と呼べばよいのでしょうか。
そこには友情も、敵意も、完全な理解もありませんでした。
けれど、互いにとって代えがたい存在であったことは、言葉以上に伝わってきます。
共に過ごした時間の中で、
グリュックは理想を守り、マハトは人間の感情に触れようとした。
ふたりの交わりは、「目的の一致」ではなく、目的のすれ違いが生んだ、奇妙な共鳴だったのかもしれません。
物語の中で、すべてが明かされるわけではありませんでした。
それでも、「楽しかった」という言葉には、
わかり合えなかった寂しさと、わかり合おうとした誠実さが、静かに滲んでいます。
このふたりの関係が、心に残る理由──
それはきっと、私たち自身にもある、「完全には理解できない誰か」との記憶に重なるから。
“わかり合えなくても、関係は存在する”
その事実が、読者にとって“人と人との在り方”を問い直す鏡になっているのではないでしょうか。
この記事が、あなたの中にある未消化な感情と物語に、
そっと意味の輪郭を与える一助になっていたら嬉しいです。



コメント