──「無限城編の善逸、マジで泣いた」
劇場を出たあと、そんな言葉がSNSのタイムラインに流れてきたとき、私は妙に納得してしまった。
だってそうでしょう? あの我妻善逸ですよ。泣き虫で、臆病で、禰豆子ちゃんにデレデレで、しょっちゅう叫んでは気絶してる、あの善逸が。
そんな彼が、「俺は壱ノ型しか使えない」ことを背負いながら、命を燃やすような戦いを見せた。その姿に、なぜこんなにも心を揺さぶられたのか。
答えは簡単ではないけれど──だからこそ語りたい。この記事では、映画『鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来』における善逸の魅力を、声優・下野紘の演技、雷の呼吸の演出、獪岳との因縁という三つの軸から紐解いていく。
「壱ノ型しか使えない男」が、なぜこんなにもかっこよかったのか。
その理由を、一緒に考えてみませんか。
善逸という存在の“尊さ”を再確認した155分

善逸はいつだって騒がしかった。
周囲の空気を読まずに泣き叫び、戦いたくないと駄々をこね、でも気絶すれば無敵──そんな“ギャップ芸人”のようなポジションが、善逸というキャラをずっと支えていた。
でも、今回の映画で観た彼は、そんな記号を一度すべて脱ぎ捨てた上で、それでもなお「善逸」であり続けた。
戦いの最中、誰もが気づいたはずだ。
──この155分間、善逸はずっと“覚悟”を背負っていた。
例えば、無限城の中で響くあの一閃。雷の音よりも先に胸に突き刺さるのは、彼の瞳に宿った決意だった。気絶もしない。泣きも叫びもしない。ただ、まっすぐに剣を振るう。
それがどれほどの変化か、ファンなら誰よりも知っているはずだ。
X(旧Twitter)では、声優・下野紘さんの投稿が話題になった。
ねぇぇぇ〜ずこちゃァァァァァ〜〜〜んっ!
そして…
『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』
観てきましたっ そして…泣きましたっ!
この「泣いた」という一言に、6年間善逸を演じてきた声優のすべてが宿っていた。
泣き虫だった善逸が、誰かの涙を誘う側に回った。
──それだけで、この映画は“特別”だったと言える。
雷の呼吸 壱ノ型 ― それしか使えない“意味”とは

「壱ノ型しか使えない」──それは、善逸の代名詞であり、弱点であり、そして奇跡だった。
鬼殺隊の剣士たちが複数の型を操る中で、善逸はたった一つの技しか使えない。それはまるで、世界にひとつしかない鍵で扉を開こうとするような、危うい、けれど凛とした戦い方だ。
壱ノ型・霹靂一閃。それは速さで斬る技であると同時に、恐怖を乗り越えた意志の音でもある。
その一撃に、善逸はあらゆる感情と過去を詰め込んでいる。
怯えながらも剣を取ったあの日。
桑島慈悟郎に泣きながら叱られた日。
そして、「お前は壱ノ型だけでいい」と言われた、救いのような言葉。
他の型を使えないことは、不器用の証明であると同時に、一点を極める者の誇りでもある。
だからこそ、映画で描かれた「漆ノ型・火雷神」は、単なる新技ではない。
霹靂一閃を極めた男が、自らの限界を超えて生み出した“祈り”のような技。
それは、力を誇示するための一撃ではなかった。
憎しみによって生まれた獪岳に、誇りをもって抗うための、魂の斬撃だった。
善逸と獪岳 ― 血のつながらない“兄弟”の物語

この映画のクライマックスは、やはりこの二人の決闘に尽きる。
善逸と獪岳──どちらも桑島慈悟郎の弟子であり、雷の呼吸を継ぐ者。そして、“兄弟”であるはずだったふたりは、無限城で刃を交える。
観ていて最も苦しく、そして最も目が離せなかったのは、獪岳が善逸に放った一言。
「お前なんかが選ばれたことが許せなかったんだ」
その言葉に込められたのは、承認されなかった者の絶望と、誇りを失った者の悲しみだった。
一方、善逸が叫ぶ。
「お前を倒すために、俺は強くなったんだ!」
この叫びに、涙が込み上げたのは、単に復讐心の発露だからではない。
その怒りの根にあるのは、裏切られた“兄弟”への哀しみだったからだ。
獪岳は、力を求めて鬼になった。善逸は、壱ノ型だけで立ち向かう道を選んだ。
真逆の選択が、ふたりの決裂を決定づけた。
血は繋がっていなくても、共に修行し、共に叱られ、共に桑島を慕った時間は確かにあった。
だからこそ、それを踏みにじった獪岳を許せないという善逸の怒りは、ただの正義ではなく、もっと人間的な“痛み”として響いてくる。
これは単なる善と悪の対決ではない。
信頼と裏切り、希望と絶望、家族のようで家族になれなかったふたりの、最終対話なのだ。
桑島慈悟郎という存在 ― ふたりの弟子の“間”にいた人

善逸と獪岳のあいだには、ひとりの老人の存在があった。
桑島慈悟郎──雷の呼吸の使い手であり、二人の師匠。
そして、ふたりが決して共有できなかった“愛情”の象徴。
映画の中で彼の姿が直接登場することはほとんどない。
だが、ふたりの言葉、怒り、涙の中に、確かに“慈悟郎”がいた。
「お前なんかが選ばれたことが許せなかった」
──獪岳のこの叫びは、裏返せば、慈悟郎に選ばれたかったという慟哭でもある。
彼は、善逸を「壱ノ型だけでいい」と肯定した。
それは、できないことを責めるのではなく、できることを信じてくれる者のまなざしだった。
そしてそれこそが、獪岳には決して届かなかった“救い”だったのかもしれない。
慈悟郎がなぜ自ら命を絶ったのか──映画は明確には語らない。
けれど、それが善逸に残したものは大きい。
師を失い、兄弟を失い、それでも立ち上がった善逸は、“何も持たなかった者”として戦い、“すべてを知っている者”になったのだ。
桑島慈悟郎という存在は、物語の“語られざる心臓部”だった。
ふたりの運命を静かに分かつ、その揺るぎない沈黙が、画面の奥に確かに脈打っていた。
下野紘の声が導いた善逸の“覚醒”

善逸というキャラクターを語るとき、「声」は決して外せない要素だ。
泣き叫ぶ声、叫びながら泣く声、震えるような怒り、息を呑むような覚悟──
そのすべてを表現してきたのが、声優・下野紘だった。
『無限城編』において、彼の演技は文字通り“覚醒”していた。
映画の冒頭から終盤まで、善逸の感情のうねりは濃密に、そして精緻に刻まれている。
特に、獪岳との対決で善逸が吐き出す「お前を倒すために、俺は強くなったんだ!」というセリフ──
あの瞬間、言葉以上のものが観客の胸を打った。
怒鳴るでもなく、泣き崩れるでもなく、ただ、痛みを飲み込んだ人間の声。
下野さん自身も、インタビューで「6年間積み重ねてきたものを全部ぶつけた」と語っている。
その言葉に偽りはなかった。
善逸の成長、それは演技の成長でもあった。
そして、演技の成長とは、“信じて演じ続けた者”にしか辿り着けない場所だ。
善逸が、善逸として覚醒できたのは、声という魂を、6年間注ぎ続けた人がいたからこそだった。
映像演出と音響 ― 善逸の心情を彩る“場面設計”

『無限城編』を観た人の多くが口を揃えて言う。
──「善逸が、ちゃんと“かっこよかった”」
これは、彼の内面の変化だけでなく、演出そのものが善逸を“かっこよく”見せるために、全力で仕掛けられていたからだ。
まず注目したいのは、色温度の変化だ。
善逸が本格的に戦闘に入る直前、画面全体の彩度が落ち、青みが強くなる。
これは彼の迷いと恐怖、そして静かに決意を固めていく心理を、視覚的にトレースする巧妙な演出である。
そして、“音”の扱いもまた、計算され尽くしている。
霹靂一閃の直前、一瞬だけ無音になる瞬間──
それは、彼が恐怖を飲み込んだ「呼吸の一拍」だ。
観客の鼓動さえも奪うような、その静寂の演出によって、雷鳴の衝撃はより強く、より切実に響く。
さらに、善逸の剣戟に重なる“雷の音”は、単なる効果音ではなく、彼の怒りや覚悟そのものを象徴していた。
特に火雷神の瞬間、その音は“咆哮”に近かった。
それは、臆病だった少年がようやく発した、“生きている”という叫び。
こうして映像と音響は、善逸の内面を単に補足するのではなく、彼の物語そのものとして観客に刻み込んだ。
まとめ ― 善逸という“語られるべき存在”
善逸というキャラクターは、いつだって語られる前に誤解されてきた。
臆病者、騒がしい奴、女の子に弱い、お荷物。
でもそのどれもが、彼の“弱さを引き受ける強さ”の表裏だった。
映画『無限城編』は、そんな善逸を、ようやく「正面から語る」機会をくれた。
壱ノ型しか使えないことを恥じるのではなく、極めたことを誇る。
兄弟弟子との確執に蓋をするのではなく、対峙することで超える。
そして、愛されたことを思い出すことで、誰よりも“強く”なる。
善逸は、まぎれもなくこの映画の“もうひとりの主役”だった。
下野紘さんの声と共に歩んだ6年。
雷の呼吸が刻んだ心音。
そして、慈悟郎という名前が残したぬくもり。
それらすべてが重なり合って、私たちはようやく、善逸という存在を“語る”準備が整った。
最後に、ひとつだけ問いかけたい。
──あなたにとって、「壱ノ型しか使えない」とはどういう意味を持ちましたか?
それは弱さでしょうか。
それとも、唯一無二の強さでしょうか。
ぜひ、あなたの感じた善逸を、言葉にしてみてください。
コメントでも、SNSでも、誰かとの語り合いでも構いません。
それがきっと、またひとつの“呼吸”になるはずだから。



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